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風が、死んだように凪いでいた。苔むした岩肌を撫でる息吹はあまりに微かで、まるで巨大な獣の死骸の内にいるかのような、淀んだ静寂だけが世界を支配している。空気そのものが色褪せ、遠い過去の栄光を偲ぶかのように、すべてが灰色がかったセピアの帳に沈んでいた。

ふいに、空間が奇妙に震えた。陽炎のように歪んだ一点が、紫電の火花を瞬かせて弾ける。そこから吐き出されたのは、人型の巨影だった。
ずしり、と大地を揺るがすほどの重みを伴って両脚で着地したのは、身長210cmの長身の男。その全身は人の肉で出来ているのではない。磨き上げられた黒曜石、あるいは夜の闇をそのまま固めたかのような、滑らかで硬質な光沢を放つ鉱石の肌を持っていた。その体躯にふさわしい、人の胴ほどもある巨大なハルバードを片手に携え、もう片方の手で、天を突くほどに高い、奇妙な意匠の施されたとんがり帽子を抑えている。

「――むぅ」

漏れた声は、地の底から響くような、それでいて朗々と通るバリトンであった。彼はゆっくりと顔を上げる。その貌もまた、彫刻家が鑿を入れた黒曜石の如きであり、眼窩にあたる部分の奥深くで、不可思議な紫色の光がぼんやりと灯っては消える。
ここはどこだ、と男――エンリク・サランドナは思考を巡らせた。先程まで、彼は故郷ラクシアの古代遺跡、その最深部にいたはずだった。手に入れた古文書の解読を終え、意気揚々と踏み込んだ先に待っていたのは、目眩く光の奔流。魔法文明期に作られた、古典的ながらも強力な転移の罠。長年の冒険者としての経験と、イレブン傭兵団最高幹部としての実力が、咄嗟に防御障壁を展開させた。おかげでこのフロウライトの頑強な身体に傷一つないが、飛ばされた先がこれでは、手放しには喜べない。

「まさかこの私が遺跡の転移罠を――見誤るとは。クハッ、これもまた一興か。だが、それにしても……」

芝居がかった嘆息を漏らし、エンリクは改めて周囲を見渡した。視界に広がるのは、見渡す限りの荒涼とした大地だった。朽ち果てた石造りの建物が、まるで巨人の墓標のように点在している。風化した石壁には、見たこともない紋様が刻まれ、その悉くが永い歳月の重みに耐えかねて崩れかけていた。植物は、生命力の乏しい矮小な木々か、あるいは病的なほどに青白い花弁を持つ、不気味な花々ばかり。そして、何よりも彼の目を引いたのは、空だ。遥か地平線の彼方、いや、あるいは天そのものから生えているのか、この世の理を捻じ曲げるかの如く聳え立つ、巨大な黄金の樹。その枝葉は雲を貫き、世界全体を覆わんばかりに広がって、神々しいまでの光を降り注いでいる。だがその光は、生命を育む太陽のそれとは異質だった。どこか冷たく、停滞した、黄金色の悲哀を湛えている。

「……ほう。これは、私の知るどの神々の天地創造にも記されていなかった光景だ。魔神が作り出した領域(ドメイン)か? いや、この規模、この法則の書き換えられようは、それすらも超越している」

知的好奇心が、現状への不安を凌駕していく。彼のフロウライトの頭部が、内側からカンテラの如くぼんやりと輝きを増した。それは彼の昂奮を示す証左だった。未知の物語の舞台に立たされたのだ。これほどの喜びがあろうか。ハルバードの石突きで、足元の地面を軽く突く。コン、と硬質な音が響き、確かな手応えが返ってくる。ここは幻影の世界ではない。紛れもない、現実。と、その時。
エンリクの研ぎ澄まされた感覚が、新たな気配を捉えた。極めて静かで、それでいて明確な意思を持った何かが、こちらへ近づいてくる。音も立てず、風も揺らさず、まるで陽炎が人の形を取ったかのように。
彼は巨体を微動だにさせず、ただ視線だけをその方向へ向けた。警戒は怠らない。右手の指がハルバードの柄をきつく握り込む。筋力は常人の4.5倍。ひとたび振り下ろされれば、鉄塊すらもバターのように両断するであろうその凶器は、しかし未だ静かに主の意を待っている。

霧と呼ぶにはあまりに淡い光の粒子の中から、まず現れたのは一頭の馬だった。馬、と呼ぶにはその姿はあまりに幻想的だった。角を持ち、霊的な青い光を全身に纏ったその獣は、蹄の音もなく滑るように進んでくる。そして、その傍らに寄り添うように、一人の少女が立っていた。
古びた旅人のマントを羽織り、フードを目深に被っている。顔にかかる影のせいで表情は窺い知れないが、閉じられた左の瞼が痛々しい。その立ち姿はどこか頼りなく、細い身体は強い風が吹けば容易く倒れてしまいそうに見える。
だが、エンリクは見抜いていた。彼の常人を遥かに超える知力と、数多の怪異と渡り合ってきた経験が、彼女の正体を即座に喝破していた。
あれは、生者ではない。その魂は清浄なまま、しかし肉体という枷を失って現世に留まっている。まさしく、彼の世界で言うところの「ゴースト」そのものであった。

エンリクの口元が、愉悦に歪んだ。最高の舞台に、早くも興味深い役者が登場したではないか。彼は、まるで長年待ち望んだ好敵手に再会した騎士のように、恭しく、しかしその巨体故に威圧的に、わずかに身をかがめた。

「ん? なんだここは?」

わざとらしく周囲を見回す仕草で、まずは自身の当惑を演出する。これは観客に対する、物語の導入部における主人公の独白だ。そして、視線をゆっくりと少女へと移す。

「ほう! そこのお嬢さんはただの少女ではないな……。その気配、その佇まい。ふむ、ゴースト、といったところか。結構。実に結構だ! して、どのような未練が君をこの現し世に繋ぎ止めているのかな? よければこの私に、その物語を聞かせてはくれまいか?」

芝居がかった大仰な口調。好奇心と期待に満ちたその声音は、しかし少女――メリナの耳には、理解不能な闖入者の戯言として響いた。
メリナは、ただ静かにその巨岩の如き男を見つめていた。彼女は、祝福の導きに従い、この地に現れるであろう新たな褪人を探しに来た。だというのに、目の前に立つのは、人間とは似ても似つかぬ異形の存在だった。結晶人だろうか、と彼女は最初に推測した。魔術学院レアルカリアに仕える彼らもまた、鉱石の身体を持つ。だが、この男の放つ雰囲気は、どの結晶人とも決定的に違っていた。黒く、深く、底知れない闇を思わせるその肌。感情の機微を映すかのように明滅する頭部の光。そして何より、その口から発せられる理路整然とした、しかし奇矯極まる言葉。この地の者ではない。メリナは即座に結論付けた。この男は、狭間の地の理の外からやってきた、完全なる異物だ。

「……私は、メリナ」

彼女はフードの奥から、静かで感情の抑えられた声を紡いだ。霊体である彼女の声は、エンリクの鼓膜ではなく、魂に直接響くようにして届く。

「あなたをゴーストと呼ぶなら、そうなのかもしれない。私は肉体を失い、今は使命だけがここにある。だが、未練ではない。これは取引の為」

傍らの霊馬トレントが、ブルル、と鼻を鳴らし、警戒を示すように前脚で地面を掻いた。その青い霊気の輪郭が、エンリクの巨躯を前にしてわずかに揺らめいている。エンリクの眼窩の光が、一層強く輝いた。
「取引だと? クハーッ! 未練ではなく、使命! 素晴らしい! それはもう、ただの地縛霊の身の上話ではない! 壮大な叙事詩のプロローグだ! 聞かせてもらおう! 君が果たさんとする使命とは何か! そして取引の相手とは、一体いかなる役者なのか!」
彼はハルバードの柄をトン、と軽く地面に突き、劇場で観劇する貴族のようにふんぞり返った。その体勢は尊大そのものだったが、彼自身は物語に没入する観客の心持ちだった。メリナはわずかに眉根を寄せた。この男の言葉は、まるで全てを舞台の上の出来事として捉えているかのようだ。役者、叙事詩、プロローグ。その一つ一つが、彼女の現実とは致命的に噛み合わない。

「私の取引の相手は、褪せ人。祝福の導きを受け、この地でエルデの王を目指す者。あなたは……その褪せ人ではないようだ」
メリナは淡々と事実を告げた。彼女の目的は明確であり、それ以外のものに割く時間はない。だが、この異形の存在が放つ力は、無視するにはあまりに強大だった。

「褪せ人! 色褪せた者か! エルデの王! クハハッ、これはいよいよ面白くなってきた! 二つ名と大層な目的! 王道にして至高! 良い、実に良いぞ!」
エンリクは腹の底から笑った。その笑い声は、この褪せた世界には不似合いなほどに生命力に満ち、周囲の崩れた遺跡の壁をビリビリと震わせた。
「残念ながら私はその褪せ人ではない。私はエンリク・サランドナ。訳あってこの壮麗なる舞台に迷い込んでしまった、しがない物語の愛好家にして、見ての通り頑丈さだけが取り柄のフロウライトさ」
フロウライト。メリナの記憶にはない単語だった。やはり、彼はどこか別の世界から来たのだ。ならば、この世界の理も、祝福も、黄金樹の恩寵も、彼には通じないのかもしれない。

「私は行く。褪せ人を探さねばならない」
これ以上の対話は無意味と判断し、メリナは踵を返そうとした。彼女の使命は、この謎の巨人と歓談することではない。

「待った、待った! お嬢さん、そう急くものではない」
エンリクは慌てて手を差し出し、彼女を引き止めた。もっとも、その鉱石の指先がメリナの霊体に触れることはない。
「なんとつれない。せっかく素晴らしい物語の幕開けに立ち会えたというのに、主役の登場を待たずして観客を追い出すとは、あんまりな仕打ちではないか?」
彼の口調は嘆き悲しむ悲劇役者のようだった。
「私も見届けさせてもらおうではないか! 君が探し求めるその『褪せ人』とやらが、この世界でいかなる喜劇を、あるいは悲劇を演じるのか! その結末が、いかなる喝采、あるいはいかなる慟哭を呼ぶのかを!」
その言葉には、純粋な好奇心と、物語の行く末を見届けたいという渇望だけが込められていた。大臣として国の趨勢を操り、傭兵団の幹部として戦場を支配してきた彼にとって、自らが介入できない、あるいは介入すべきではない壮大な物語ほど、心をそそるものはない。かつて救えなかった一人の少女が焦がれた「物語」を、彼は今もなお追い求めているのだ。

メリナは歩みを止め、ゆっくりと振り返った。フードの奥から、エンリクを射抜くような視線が注がれる。彼女の閉じられていない右目が、この世界の理から外れた存在を、改めて値踏みしていた。
彼の言葉は狂人の戯言のようでありながら、その眼窩に宿る紫の光には、紛れもない知性と、そして底知れぬ深淵が感じられた。
敵ではないのかもしれない。しかし、味方とも断じきれない。彼はただの「観客」だと言う。ならば、舞台に干渉はしないのか。それとも、最高の結末を迎えるためならば、脚本に手を加えることも厭わない監督になるのだろうか。

「……好きにするといい」
長い沈黙の末、メリナはそれだけを告げた。
彼を排除する力も理由も、今の彼女にはない。そして、もし彼が本当にただの観客であるならば、ここにいても害はないだろう。

「クハーッハッハッハ! 許可、感謝するぞ、使命のゴースト殿!」
エンリクは満足げに高笑いを響かせた。
「素晴らしい! 実に素晴らしい喜劇の幕開けだ! さあ、行こうではないか! 主役の待つ、次なる舞台へ!」

かくして、狭間の地に降り立った異質の観客は、導き手たる巫女の後を追うこととなった。
褪せたリムグレイブの空の下、黄金樹が静かに二人を見下ろしている。それは祝福か、あるいは警告か。まだ誰にも分からない。物語は、まだ始まったばかりなのだから。

風は絶え間なく、丘を駆け上がっていく。痩せた土に根を張る草々が、一斉に同じ方向へとなびき、さざ波のような音を立てていた。その向こう、灰色の大気のベールを突き破って、巨大な城郭が天を衝いている。無数の尖塔と分厚い城壁が織りなす威容は、あたかも傲慢そのものを石で組み上げたかのようであり、吹き荒れる嵐をその身に纏う姿は、永劫の孤独を強いられた王のようでもあった。ストームヴィル城。その威圧感は、ただの建造物が放つそれを遥かに超えていた。

「――そして、この嵐の城の主、ゴドリックもまた、デミゴッドの一人。女王マリカの血を引く者。彼は他のデミゴッドから逃れ、この城で力を蓄えている。エルデの王を目指すのなら、彼が持つ『大ルーン』は、いずれ手に入れなければならない」

メリナの声は、吹きすさぶ風に掻き消されることなく、不思議な明瞭さをもって隣に立つ巨人の魂に直接届いていた。彼女は城から視線を外さず、フードの奥で静かに佇んでいる。霊体である彼女には、この肌を刺すような風も、寒さも、関係がない。ただ、使命だけがそこにある。彼女の説明を聞き終えたエンリク・サランドナは、しばらくの間、何も言わずに腕を組んで黙考していた。彼の黒曜石の貌は、何の感情も映し出してはいない。ただ、眼窩の奥で揺らめく紫の光だけが、彼の思考の深さを示しているかのようだった。やがて、その鉱石の唇がゆっくりと弧を描いた。

「成程な」

地の底から響くような声が、唸るように漏れ出た。

「各地に散らばった王の血族――デミゴッドとやらを討伐し、奴らが持つ力の核たる『大ルーン』をかき集める。そうして力を示し、最終的にはこの世界の王の座に就く、と。クハッ……」

堪えきれない、というように彼の肩が震え始める。そして次の瞬間、それは抑えの効かない哄笑となって爆発した。

「クッ、ハハハッ! クーーーッハッハッハッハッハ! 素晴らしい! なんと愉快な筋書きだ! 分かりやすく、それでいてなんとドラマチックな! 没落した王家の末裔たちが、失われた力を求めて互いに喰らい合う! これはもはや悲劇を通り越して、最高の喜劇ではないか!」

その笑い声は、丘を吹き抜ける嵐の音に勝るとも劣らないほどの音量で周囲に響き渡った。メリナの傍らに控える霊馬トレントが、驚いて数歩後ずさる。メリナ自身は微動だにしなかったが、この異邦人の常軌を逸した反応に、フードの下で密かに眉根を寄せていた。この男にとって、これから始まるであろう血で血を洗う戦いは、ただの観劇の対象でしかないのだ。

一頻り笑い終えたエンリクは、ポン、と自身の膝を打った。そして、その巨大な指先で、まるで舞台装置を指し示すかのように、遥か彼方のストームヴィル城を指した。

「して! 直近の標的が、あの物々しい城の主か! よろしい! 実に結構! あの陰鬱な石頭の塊が、最初の舞台となるわけだな!」
彼の体躯に不似合いなほど軽やかな足取りで、崖の縁ギリギリまで進み出る。眼下には、城へと続く断崖絶壁が広がっている。
「ふむ。しかし、あの城に正面から挑むのは、いささか芸がないとは思わんかね? 待ち受ける兵士たち、仕掛けられた罠、それらを一つ一つ乗り越えていくのも冒険の醍醐味ではあろうが……もっとこう、派手な演出があっても良いのではないか?」
そう言うと、彼は楽しそうにメリナを振り返った。その眼窩の紫光が、悪戯を思いついた子供のように爛々と輝いている。

「例えば、だ。あの城ごと、綺麗さっぱり消し飛ばしてしまう、というのはどうだろうか?」

その言葉は、あまりに突拍子がなかった。メリナは、初めて明確な当惑を表情に浮かべた。
「……城ごと?」
「うむ! あの忌々しい嵐ごと、纏めて塵にしてやるのだ! 私が本気を出せば、それほど時間はかからんぞ。そうだな……準備に小一時間ほど貰えれば、あのゴツい城壁も、一番高い塔も、全てが等しく、直径1キロメートルほどの綺麗なクレーターに早変わりだ。どうだ? 物語の幕開けを飾るに相応しい、壮大なスペクタクルだとは思わんかね?」
エンリクは、まるで自分の庭に新しい花を植える計画を語るかのように、にこやかに、そして誇らしげに語った。1キロのクレーター。それは、このストームヴィル城があったという痕跡すら残さないほどの、完全な破壊を意味していた。

メリナは絶句した。
彼女の世界の、最も強力な魔術師たちでさえ、一個の城を丸ごと消滅させるなどという芸当は聞いたことがない。ソールの蝕む太陽や、崩壊するファルム・アズラの流星群ですら、そのような精密かつ広範囲な破壊をもたらすものではない。この男は、一体何を言っているのか。
「……あなたに、そのようなことができると?」
疑念のこもった声で、メリナは問い返した。それは虚言か、あるいは狂人の戯言か。

「クハッ! 疑うのも無理はない! 君たちの世界の『魔法』とやらが、どの程度のものか私は知らんからな。だが、私の使うこれは『真語魔法』。世界の理を直接紡ぎ変える、言わば神々の御業の雛形よ」
エンリクは芝居がかった仕草で胸を張り、ハルバードを傍らの地面に深々と突き立てた。そして、得意げに解説を始める。
「よかろう! 特別に、この私が愛用する最高のフィナーレ、『メテオ・ストライク』の原理を説明してやろうではないか!」

彼は天を指差した。その鉱石の指先は、灰色の雲の向こう、黄金樹の葉のさらに遥か上空を指している。
「原理かね? 聞いて驚くなかれ。実に単純明快だ! まず、空間と空間を繋ぐ『ディメンジョン・ゲート』という魔法で、この世界のすぐ外、宇宙空間に浮遊している手頃な大きさの岩……そう、隕石だな。それを探し出す。見つけたら、その隕石のすぐそばと、この城の真上、二つの座標にゲートを開くのだ!」

彼は両手で輪を作り、片方を高く掲げ、もう片方を城の方角へ向けて見せた。子供に物事の道理を説いて聞かせるかのような、丁寧な身振りだ。

「あとは分かるな? 片方のゲートに吸い込まれた隕石は、もう片方のゲートから飛び出してくる! すなわち、遥か上空から、あの城めがけて巨大な岩塊が降り注ぐというわけだ! 重力という名の、最も原始的で、最も破壊的なエネルギーを利用した、実にエレガントな魔法だろう? 私の世界(ラクシア)では直径6メートルほどの範囲を吹き飛ばすのが一般的だが、時間さえかければ対象の座標と質量、そして大気圏突入時の角度を精密に計算することで、着弾時の爆発規模を任意に調整できるのだ! 目標を正確に破壊しつつ、周囲への被害を最小限に……いや、今回は派手にやれと言うのならば、この大地が揺り籠のように揺れるほどの衝撃をくれてやっても良い!」

しょうがないから説明した、という体で語られるその内容は、メリナの理解を完全に超越していた。
宇宙。隕石。次元の門。そのどれもが、彼女の知る理から外れている。だが、彼の語り口には、微塵の嘘も誇張も感じられない。彼にとって、それは当たり前のことであり、可能なことなのだという絶対的な自信が満ち満ちていた。そして何より恐ろしいのは、彼の視界に、城壁の陰で生活しているであろう兵士や従者たちの姿が、一切入っていないことだった。彼にとって、城とは舞台装置であり、そこにいる者たちは名前すらないエキストラなのだろう。

「それに……」
エンリクは顎に手を当て、専門家のように城を検分し始めた。
「見たところ、あの城には大規模な魔法障壁の類も展開されていないようだ。これではまるで、鍵もかけずに扉を開け放しているようなもの。襲ってくださいと言わんばかりではないか。あまりに無防備! 脚本家として、このような杜撰な舞台設定は見過ごせんな!」

もはや、呆れるという感情すら通り越し、メリナは一種の畏怖を感じていた。この男は、危険だ。その力も、その思考も、この狭間の地にとってあまりにも異質で、劇薬すぎる。しかし。もし、彼の言葉が真実ならば。
あの難攻不落に見えるストームヴィル城を、一人の犠牲も出すことなく(あるいは、褪せ人の犠牲を出すことなく)、攻略できるとしたら?
それは、計り知れないほどの利点だった。彼女の目的は、あくまで褪せ人をエルデの王とすること。その過程で、どれだけの血が流れようと、どれだけのものが破壊されようと、それは最終的な目的の前では些末なことなのかもしれない。それに、この世界の理から外れたこの男の力が、ゴドリックが持つ大ルーンに、そして黄金の律法にどのような影響を及ぼすのか。見てみたい、という危険な好奇心が、彼女の冷静な思考の片隅で、静かに芽生えていた。メリナは、長く、長く沈黙した。風の音だけが、二人の間に流れていく。やがて彼女は、フードの奥から、諦観とも、承諾ともつかない、静かな声を絞り出した。

「……そこまで言うのなら、やってみてもいい」

その言葉を聞いた瞬間、エンリクの眼窩の光が、カッ、と閃光のように輝いた。
「おおっ! 聞いたか、お嬢さん! 許可が下りたぞ!」
彼は天を仰ぎ、両腕を大きく広げた。その姿は、最高の舞台演出を任されたことに狂喜する、偉大なる、そして狂気に満ちた脚本家そのものだった。

「クハーッハッハッハッ! 任せておけ! このエンリク・サランドナが、貴君らの門出に、最高の花火を打ち上げてやろう! さあ、刮目せよ! この地の役者たちよ! これが、我が世界の『演劇』だ! この壮麗なる破壊の先に待つは喜劇か、あるいは悲劇か! いずれにせよ、これぞ最高のエンターテイメント! ジ・エンドまで、瞬きすら許さんぞ!」

嵐の丘に、異界の魔術師の高笑いが木霊する。それは、一つの時代の終わりと、全く新しい、予測不可能な物語の始まりを告げる、破滅の序曲だった。

そして、一時間が経過した。その時間は、メリナにとって永遠のようにも、瞬きの間のようにも感じられた。
エンリク・サランドナは、あの丘の突端に仁王立ちになったまま、一度も動かなかった。ただ、彼の周囲だけが、世界の法則から切り離されたかのように、異様な変容を遂げていったのだ。

詠唱が始まったのは、メリナが許可の言葉を口にしてすぐのことだった。それは、彼女が知るどんな魔術の詠唱とも異なっていた。一つの単語を発するのに、数分を要するかの如く緩慢で、それでいて一つ一つの音節が、大地の基盤そのものを揺さぶるような重みと力を持っていた。ラクシアの古語、神々の言葉の断片――真語魔法。それは呪文というよりは、世界に対する厳粛なる「宣言」だった。

低く、朗々とした声が紡がれる。エンリクの鉱石の身体が、共鳴するように内側から淡い紫の光を放ち始めた。足元の地面に、魔法陣のような幾何学模様が独りでに浮かび上がる。それは魔術の紋様というより、天体の運行図を精密に写し取った設計図のようだった。

彼の両腕がゆっくりと天に掲げられる。その指先が灰色の雲を指し示すと、周囲の空気がビリビリと震え、まるで巨大な静電気の塊と化した。風が止んだ。丘を駆け上がっていた風が、鳥の声が、草のさざめきが、ぴたりと、死んだように静まり返る。世界の音が、彼の宣言に聞き入っているかのようだった。メリナは霊体でありながら、肌を粟立たせるような途方もないエネルギーの集中を感じ取り、無意識のうちに霊馬トレントの傍らへと身を寄せていた。

エンリクの体から放たれる光が、明滅を繰り返す。彼のステータス、常人の8.5倍を誇る知力と7倍の精神力が、この一個の魔法を制御するために、全力で稼働しているのが分かった。複雑怪奇な数式を暗算し、天体の軌道を予測し、空間の歪みを計算し、寸分の狂いもなくゲートの座標を設定していく。彼の頭脳は、今や神の領域に最も近い演算装置と化していた。

そしてついに、最後の宣告が紡がれる。
「真、第十五階位の攻。強化、召喚、衝撃、破壊――隕石!!」

その言葉が放たれた瞬間、天が裂けた。ストームヴィル城の真上、遥か雲海の彼方で、空間が音もなく引き千切れる。それはまるで、黒いビロードの空にナイフで傷をつけたかのような、完璧な円形の「無」だった。直径数十メートルはあろうかというその漆黒の穴から、黄金樹の光でも、月光でもない、冷たくて邪悪な宇宙の闇が覗いている。それが、エンリクの言っていた「ディメンジョン・ゲート」。

一瞬の静寂。世界が息を止めた。次の瞬間、その闇の中心から、何かが「産み落とされた」。それは、初めは小さな点にしか見えなかった。だが、その点は恐るべき速度で巨大化していく。それは星だった。神話の時代に巨人が投げた岩塊、あるいは神の怒りそのものが形を成したかのような、歪で巨大な小惑星。大気圏との摩擦で赤熱し、その表面は溶岩のようにどろどろと輝いている。背後には、空を引き裂くほどの長く、壮麗な光の尾を引きながら。

「――!!」

もはや音はなかった。落下してくる星の質量があまりに巨大すぎて、その前を進む空気を完全に圧縮し、真空の壁を作り出していたからだ。ストームヴィル城の上空だけが、まるで時間が停止したかのように静まり返っていた。城壁の上で見張りをしていた兵士たちは、何が起きているのか理解する間もなく、ただ空を見上げて呆然と立ち尽くすばかりだったろう。偽りの星が、地表に到達する。

――音が、還ってきた。それは、世界の終わりの咆哮だった。鼓膜を突き破り、内臓を揺さぶり、魂の芯まで叩き潰すような、絶対的な轟音。エンリクが張った防御障壁の中にいたメリナでさえ、その衝撃に思わず膝をつきそうになった。
着弾した瞬間、閃光がリムグレイブ全土を白く染め上げた。視界が回復した時、そこにもう城はなかった。

ストームヴィル城があった場所は、巨大な、あまりにも巨大な灼熱のクレーターへと変貌していた。ゴドリックが誇った分厚い城壁も、天を突く尖塔も、嵐の中心に君臨していた玉座も、全てが等しく、原子レベルまで粉砕され、灼熱の蒸気となって天に昇っていく。城を覆っていた恒常的な嵐は、その中心核を失い、まるで主を失った獣のように四散し、嘘のように空は晴れ上がった。直径一キロメートル。エンリクの言葉は、微塵の誇張もなかった。そこにはただ、大地に穿たれた巨大な傷跡と、溶融した岩がガラスのように輝く、地獄のような絶景だけが広がっていた。

「……これが……」
メリナは呆然と呟いた。あまりの光景に、思考が追いつかない。これが、たった一人の、しかも異邦人の力だというのか。デミゴッドが何十年、何百年とかけて築き上げた権威と城郭が、たったの一時間で、跡形もなく消え去ってしまった。

エンリクは満足げに、ハルバードを肩に担ぎ直した。その鉱石の肌には、返り血ならぬ返り熱でわずかに蒸気が上がっている。
「クハーッ! どうだね、メリナ殿! これで最初の幕間だ! 舞台の掃除は、こうでなくてはな!」
その時だった。

クレーターの中心、最も深く灼熱した地点から、金色の光の粒子が、まるで泉のように湧き出し始めた。
それは、一つ、二つではない。何百、何千、何万という数の、暖かく、そしてどこか物悲しい光の奔流。それらは意志を持っているかのように、ふわりと宙に舞い上がると、一斉にこちらへと向かって流れ始めたのだ。
ルーン。この地で命を落とした者の魂が遺す、力の残滓。ゴドリックに仕えていた兵士たち、騎士たち、そして、おぞましい「接ぎ」によって城の一部とされていた者たちの魂。その全てが一瞬にして解放され、黄金樹の法則に従って、新たな主を求めるように集まってくる。
その奔流の中心には、ひときゅうわ大きく、禍々しいまでに濃密な光を放つルーンがあった。他の光が星屑だとするならば、それはまさしく満月。ゴドリックが所有していた「大ルーン」そのものだった。

「ほう……?」

エンリクは、自分に向かって飛来する無数の黄金の光を見つめ、初めて見る現象に興味深そうに首を傾げた。
「これは……魂の輝きか? 敗者の力が、勝者を祝福する。なんと素晴らしいシステムだ! 実にドラマチックではないか! この世界の法則は、私の好みだ!」
彼は両腕を広げ、その黄金の嵐を全身で受け止めた。大量のルーンが、彼のフロウライトの身体に吸い込まれていく。しかし、それはエンリクの力にはならなかった。彼はこの世界の理の外の存在。ルーンによる強化は受けられない。光は彼の体を通り抜け、彼の背後にいるメリナ、そして、いつか現れるであろう彼女の取引相手のために、その場に留まり、静かに渦を巻き始めた。

だが、大ルーンだけは違った。デミゴッドの核たるそれは、エンリクという異質な存在に強く惹きつけられるかのように、彼の掲げた鉱石の掌の上で、静かにその輝きを留めた。まるで、新たな主として彼を吟味しているかのようだった。

「見事! 見事だ!」
エンリクは、手の中の輝きを満足げに見つめ、そして高らかに笑った。
「これで第一幕は上々の滑り出しだろう! さあ、メリナ殿! これで大ルーンとやらも手に入った! 次なる舞台はどこだね? この喜劇、最後まで見届けさせてもらうぞ!」

大量のルーンの光が渦巻く丘の上で、異邦人の高笑いが響き渡る。メリナは、もはや言葉もなかった。ただ、目の前で起こった天変地異と、その元凶である巨岩の男、そしてその手の中で輝く大ルーンを、呆然と見つめることしかできなかった。
彼女が描いていた旅路は、この観客の登場によって、根底から覆されようとしていた。それが祝福なのか、あるいは更なる破滅への序曲なのか。答えを知る者は、まだ誰もいない。

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