午後の陽光が玉京台の瑠璃色の屋根を滑り落ち、緋雲の丘の喧騒を柔らかく包む頃。璃月港を貫く大河のほとりは、中心街の賑わいから少し離れ、比較的穏やかな時間が流れていた。柳の枝が水面を撫でるように垂れ下がり、時折、荷を運ぶ小舟がゆっくりと通り過ぎていく。そんな川岸の小道を、軽やかな足取りで歩く少女がいた。
往生堂第七十七代目堂主、胡桃。彼女は今日も、独特のリズムで鼻歌を口ずさみながら、午後の散策を楽しんでいた。頭には往生堂の印が入った帽子、身には梅の花を散らした黒と赤を基調とした装束。その足取りは蝶のようにひらひらと軽やかで、時折くるりと回ってみたり、道端の石を蹴ってみたりと、まるで踊っているかのようだ。彼女の瞳は、よく見ると梅の花の形をした虹彩を持っており、好奇心と悪戯っぽさでキラキラと輝いていた。璃月港の人々は、この風変わりな少女を、畏敬と、そして少しばかりの困惑をもって見守っている。彼女が口にするのは、しばしば「死」に関する奇妙な勧誘や、突拍子もない詩であるからだ。
「♪ぴょんぴょん仙霊、どこへ行く〜? ウチなら往生、極楽浄土〜♪ ああ、いい天気! こんな日は新しいお客様が見つかるかもねぇ?」
独り言を呟きながら、胡桃は川岸に茂る葦の根元に、何か黒い塊が横たわっているのに気がついた。最初は打ち上げられた流木か、あるいは誰かが捨てた荷物かと思った。だが、近づくにつれて、それが人影であることに気づく。それも、かなり小柄な。
「おや?」
胡桃の足がぴたりと止まる。彼女の目は、普段の悪戯っぽい輝きとは違う、鋭い観察眼を光らせた。倒れているのは少年だった。まだ幼さの残る顔立ちだが、その表情には深い疲労と、年齢にはそぐわない影が刻まれている。年は十四、五といったところだろうか。身長は150センチメートルほどで、ひどく痩せている。体重は、おそらく40キログラムもないだろう。その身を包むのは、黒を基調とした軽鎧。金属製ではないようだが、革や特殊な素材を重ね合わせた、実戦的な作りをしている。しかし、今は泥と川の水で汚れ、あちこちに擦り傷や、おそらく戦闘でついたであろう切り傷が見えた。
少年はうつ伏せに倒れており、顔は半分、湿った土に埋もれていた。規則正しいとは言い難い、浅く、苦しそうな呼吸が、かろうじて彼の生存を示している。ぴくりとも動かないその姿は、まるで役目を終えて打ち捨てられた人形のようだ。陽光が、濡れた黒髪の間から覗く白い項(うなじ)を照らし、そのあまりの儚さに、生命の気配すら希薄に感じられた。
「あらら…こんなところで寝ちゃって。風邪ひいちゃうよ?」
胡桃は軽い口調で言いながら、少年のそばに屈み込んだ。地面に片膝をつき、その小さな体を傷つけないように、慎重に肩に触れる。冷たくはない。だが、生気が感じられない。まるで、魂だけがどこか遠くへ行ってしまっているかのように。
彼女の指先が、鎧の隙間からのぞく少年の手首に触れる。脈は、弱々しいが確かに打っていた。
「おやおやぁ?」
胡桃はわざとらしく、芝居がかった声を出した。彼女の梅の花の瞳が、面白そうなものを見つけた子供のように細められる。
「無縁仏かと思ったら、まだ息があるねぇ?」
彼女は少年の顔を覗き込むように、少し身を乗り出した。泥に汚れた頬、固く閉じられた瞼。その下には、きっと深い隈が刻まれているのだろうと想像できた。そして、どこか既視感を覚える、死の匂い。それは比喩ではなく、彼女が往生堂の堂主として、幾度となく嗅いできた気配だ。この少年は、明らかに「境界線」の近くにいる。生と死の、曖昧な境目に。
「ねぇ、君。聞こえる?」
胡桃は少し声を張り上げてみたが、少年は微かに眉をひそめただけで、意識を取り戻す様子はない。
「うーん、困ったねぇ。このままじゃ、本当に無縁仏になっちゃうかもよ?」
彼女は顎に手を当てて、芝居がかった仕草で考え込む。そして、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「どうする? このまま野垂れ死ぬより、ウチでちゃんと式を挙げて送ってあげようか? 今なら特別サービス! 友だち価格で安くしとくよ?」
いつもの営業トーク。だが、その言葉の裏には、単なる商魂だけではない、複雑な感情が揺れていた。目の前の少年が纏う雰囲気は、ただの疲労や怪我によるものではない。もっと根深い、魂の渇きのようなものを感じさせる。まるで、生きることに疲れ果て、自ら死を手繰り寄せようとしているかのようだ。
それは、胡桃が最も嫌う「生の浪費」に他ならなかった。
胡桃の言葉が届いたのか、あるいはただの偶然か。少年の瞼が微かに震え、うめき声ともつかぬ、か細い息が漏れた。ゆっくりと、重い瞼がわずかに持ち上がる。現れたのは、驚くほどに色を失った、虚ろな瞳だった。焦点は合わず、ただぼんやりと、目の前の存在――奇妙な帽子をかぶり、自分を覗き込む少女――を捉えているようだった。その瞳には、警戒や恐怖といった感情すら浮かんでいない。まるで、世界のすべてが色褪せて見えているかのように、深い虚無が澱んでいた。
その瞳を見た瞬間、胡桃の悪戯っぽい表情が、一瞬だけ消えた。彼女は知っていた。この瞳の色を。それは、あまりにも多くの死を見続け、あるいは、守るべきものを守れなかった者が、己を責め、憎み、生きる意味を見失った末に宿す色だ。かつて、彼女が送り出した人々の中にも、僅かだが、似たような瞳を持つ者がいた。
(この子…ただ者じゃないね…)
胡桃は内心で呟いた。その痩躯に似合わぬ実戦的な鎧、そして、この魂の疲弊具合。ただの子供ではない。おそらく、幾多の修羅場を潜り抜け、そして、何か決定的な喪失を経験したのだろう。墓守や葬儀の技術を持つという気配も、微かにだが感じ取れる。同業者、とまでは言かなくても、近しい世界の人間かもしれない。
「……だ…れ…?」
ようやく、少年が掠れた声を絞り出した。それは、長い間声を発していなかったかのように、ひどく弱々しかった。彼の視線が、ようやく胡桃の顔に焦点を結ぼうとする。警戒心が、本能的に働いたのだろう。身じろぎしようとするが、体は鉛のように重く、ぴくりとも動かない。
「あたし? あたしは胡桃。往生堂の堂主だよ」
胡桃は、先ほどまでの冗談めかした口調を少しだけ和らげ、はっきりとした声で名乗った。
「見ての通り、君はここで倒れてた。このままじゃ、本当に川の藻屑か、ヒルチャールのおやつになっちゃうよ?」
彼女は立ち上がり、少年の体を見下ろした。その小さな体躯、しかし秘められたであろう力、そして深い絶望。それは奇妙なアンバランスさを醸し出している。
「ま、往生堂としては、そうなってもビジネスチャンスではあるんだけど…でもね、あたしは無駄死には嫌いなんだ。特に、まだやれることがあるのに、勝手に諦めちゃうのはね」
と、わざとらしく肩をすくめてみせる。胡桃は再び少年の前に屈み込み、その虚ろな瞳をまっすぐに見つめた。
「君、名前は? まさか、名前まで忘れちゃったわけじゃないよね?」
その問いかけに、少年の瞳が、ほんのわずかに揺れた。忘れられない名前。忘れられない過去。そして、それを呼び覚ます目の前の少女の、妙に明るく、それでいて有無を言わせぬ力強さを持った視線。
「……ザラキ…」
絞り出すように、少年――ザラキは名を告げた。それは、彼の長い、そして暗い物語の、新たな序章の始まりを告げる響きを持っていた。胡桃は満足げに頷く
「ふーん、ザラキね。変な名前だけど、まあいいや!さて、ザラキ君。とりあえず、こんなところで倒れてるわけにはいかないよね? ちょっと手荒になるけど、運んであげる。文句は…言える元気もなさそうだし、受け付けませーん!」
と、いつもの調子を取り戻したように言った。
そう言うと、胡桃はその小柄な体に似合わぬ力で、ザラキの体を軽々と抱え上げようとした。その瞬間、ザラキの体がわずかに強張る。警戒心と、他者に触れられることへの拒絶。だが、胡桃はそれを意に介さず、しかしどこか優しい手つきで、彼を抱きかかえる。
「大丈夫、大丈夫。変なことしないって。とりあえず、安全なところに運んで、少し休ませてあげる。その後どうするかは、元気になってから考えなよ」
胡桃の言葉は軽いが、その声には妙な説得力があった。ザラキは抵抗する気力もなく、その温かい腕の中に、意識を委ねるしかなかった。遠ざかる川面のきらめきと、胡桃の纏う微かな線香の匂いが、彼の薄れゆく意識の中で混ざり合っていく。死神と呼ばれる少年と、往生を司る少女の、奇妙な出会いだった。
往生堂第七十七代目堂主、胡桃。彼女は今日も、独特のリズムで鼻歌を口ずさみながら、午後の散策を楽しんでいた。頭には往生堂の印が入った帽子、身には梅の花を散らした黒と赤を基調とした装束。その足取りは蝶のようにひらひらと軽やかで、時折くるりと回ってみたり、道端の石を蹴ってみたりと、まるで踊っているかのようだ。彼女の瞳は、よく見ると梅の花の形をした虹彩を持っており、好奇心と悪戯っぽさでキラキラと輝いていた。璃月港の人々は、この風変わりな少女を、畏敬と、そして少しばかりの困惑をもって見守っている。彼女が口にするのは、しばしば「死」に関する奇妙な勧誘や、突拍子もない詩であるからだ。
「♪ぴょんぴょん仙霊、どこへ行く〜? ウチなら往生、極楽浄土〜♪ ああ、いい天気! こんな日は新しいお客様が見つかるかもねぇ?」
独り言を呟きながら、胡桃は川岸に茂る葦の根元に、何か黒い塊が横たわっているのに気がついた。最初は打ち上げられた流木か、あるいは誰かが捨てた荷物かと思った。だが、近づくにつれて、それが人影であることに気づく。それも、かなり小柄な。
「おや?」
胡桃の足がぴたりと止まる。彼女の目は、普段の悪戯っぽい輝きとは違う、鋭い観察眼を光らせた。倒れているのは少年だった。まだ幼さの残る顔立ちだが、その表情には深い疲労と、年齢にはそぐわない影が刻まれている。年は十四、五といったところだろうか。身長は150センチメートルほどで、ひどく痩せている。体重は、おそらく40キログラムもないだろう。その身を包むのは、黒を基調とした軽鎧。金属製ではないようだが、革や特殊な素材を重ね合わせた、実戦的な作りをしている。しかし、今は泥と川の水で汚れ、あちこちに擦り傷や、おそらく戦闘でついたであろう切り傷が見えた。
少年はうつ伏せに倒れており、顔は半分、湿った土に埋もれていた。規則正しいとは言い難い、浅く、苦しそうな呼吸が、かろうじて彼の生存を示している。ぴくりとも動かないその姿は、まるで役目を終えて打ち捨てられた人形のようだ。陽光が、濡れた黒髪の間から覗く白い項(うなじ)を照らし、そのあまりの儚さに、生命の気配すら希薄に感じられた。
「あらら…こんなところで寝ちゃって。風邪ひいちゃうよ?」
胡桃は軽い口調で言いながら、少年のそばに屈み込んだ。地面に片膝をつき、その小さな体を傷つけないように、慎重に肩に触れる。冷たくはない。だが、生気が感じられない。まるで、魂だけがどこか遠くへ行ってしまっているかのように。
彼女の指先が、鎧の隙間からのぞく少年の手首に触れる。脈は、弱々しいが確かに打っていた。
「おやおやぁ?」
胡桃はわざとらしく、芝居がかった声を出した。彼女の梅の花の瞳が、面白そうなものを見つけた子供のように細められる。
「無縁仏かと思ったら、まだ息があるねぇ?」
彼女は少年の顔を覗き込むように、少し身を乗り出した。泥に汚れた頬、固く閉じられた瞼。その下には、きっと深い隈が刻まれているのだろうと想像できた。そして、どこか既視感を覚える、死の匂い。それは比喩ではなく、彼女が往生堂の堂主として、幾度となく嗅いできた気配だ。この少年は、明らかに「境界線」の近くにいる。生と死の、曖昧な境目に。
「ねぇ、君。聞こえる?」
胡桃は少し声を張り上げてみたが、少年は微かに眉をひそめただけで、意識を取り戻す様子はない。
「うーん、困ったねぇ。このままじゃ、本当に無縁仏になっちゃうかもよ?」
彼女は顎に手を当てて、芝居がかった仕草で考え込む。そして、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「どうする? このまま野垂れ死ぬより、ウチでちゃんと式を挙げて送ってあげようか? 今なら特別サービス! 友だち価格で安くしとくよ?」
いつもの営業トーク。だが、その言葉の裏には、単なる商魂だけではない、複雑な感情が揺れていた。目の前の少年が纏う雰囲気は、ただの疲労や怪我によるものではない。もっと根深い、魂の渇きのようなものを感じさせる。まるで、生きることに疲れ果て、自ら死を手繰り寄せようとしているかのようだ。
それは、胡桃が最も嫌う「生の浪費」に他ならなかった。
胡桃の言葉が届いたのか、あるいはただの偶然か。少年の瞼が微かに震え、うめき声ともつかぬ、か細い息が漏れた。ゆっくりと、重い瞼がわずかに持ち上がる。現れたのは、驚くほどに色を失った、虚ろな瞳だった。焦点は合わず、ただぼんやりと、目の前の存在――奇妙な帽子をかぶり、自分を覗き込む少女――を捉えているようだった。その瞳には、警戒や恐怖といった感情すら浮かんでいない。まるで、世界のすべてが色褪せて見えているかのように、深い虚無が澱んでいた。
その瞳を見た瞬間、胡桃の悪戯っぽい表情が、一瞬だけ消えた。彼女は知っていた。この瞳の色を。それは、あまりにも多くの死を見続け、あるいは、守るべきものを守れなかった者が、己を責め、憎み、生きる意味を見失った末に宿す色だ。かつて、彼女が送り出した人々の中にも、僅かだが、似たような瞳を持つ者がいた。
(この子…ただ者じゃないね…)
胡桃は内心で呟いた。その痩躯に似合わぬ実戦的な鎧、そして、この魂の疲弊具合。ただの子供ではない。おそらく、幾多の修羅場を潜り抜け、そして、何か決定的な喪失を経験したのだろう。墓守や葬儀の技術を持つという気配も、微かにだが感じ取れる。同業者、とまでは言かなくても、近しい世界の人間かもしれない。
「……だ…れ…?」
ようやく、少年が掠れた声を絞り出した。それは、長い間声を発していなかったかのように、ひどく弱々しかった。彼の視線が、ようやく胡桃の顔に焦点を結ぼうとする。警戒心が、本能的に働いたのだろう。身じろぎしようとするが、体は鉛のように重く、ぴくりとも動かない。
「あたし? あたしは胡桃。往生堂の堂主だよ」
胡桃は、先ほどまでの冗談めかした口調を少しだけ和らげ、はっきりとした声で名乗った。
「見ての通り、君はここで倒れてた。このままじゃ、本当に川の藻屑か、ヒルチャールのおやつになっちゃうよ?」
彼女は立ち上がり、少年の体を見下ろした。その小さな体躯、しかし秘められたであろう力、そして深い絶望。それは奇妙なアンバランスさを醸し出している。
「ま、往生堂としては、そうなってもビジネスチャンスではあるんだけど…でもね、あたしは無駄死には嫌いなんだ。特に、まだやれることがあるのに、勝手に諦めちゃうのはね」
と、わざとらしく肩をすくめてみせる。胡桃は再び少年の前に屈み込み、その虚ろな瞳をまっすぐに見つめた。
「君、名前は? まさか、名前まで忘れちゃったわけじゃないよね?」
その問いかけに、少年の瞳が、ほんのわずかに揺れた。忘れられない名前。忘れられない過去。そして、それを呼び覚ます目の前の少女の、妙に明るく、それでいて有無を言わせぬ力強さを持った視線。
「……ザラキ…」
絞り出すように、少年――ザラキは名を告げた。それは、彼の長い、そして暗い物語の、新たな序章の始まりを告げる響きを持っていた。胡桃は満足げに頷く
「ふーん、ザラキね。変な名前だけど、まあいいや!さて、ザラキ君。とりあえず、こんなところで倒れてるわけにはいかないよね? ちょっと手荒になるけど、運んであげる。文句は…言える元気もなさそうだし、受け付けませーん!」
と、いつもの調子を取り戻したように言った。
そう言うと、胡桃はその小柄な体に似合わぬ力で、ザラキの体を軽々と抱え上げようとした。その瞬間、ザラキの体がわずかに強張る。警戒心と、他者に触れられることへの拒絶。だが、胡桃はそれを意に介さず、しかしどこか優しい手つきで、彼を抱きかかえる。
「大丈夫、大丈夫。変なことしないって。とりあえず、安全なところに運んで、少し休ませてあげる。その後どうするかは、元気になってから考えなよ」
胡桃の言葉は軽いが、その声には妙な説得力があった。ザラキは抵抗する気力もなく、その温かい腕の中に、意識を委ねるしかなかった。遠ざかる川面のきらめきと、胡桃の纏う微かな線香の匂いが、彼の薄れゆく意識の中で混ざり合っていく。死神と呼ばれる少年と、往生を司る少女の、奇妙な出会いだった。
璃月港の石畳を、胡桃は意外なほどの安定感をもって歩いていた。その腕には、先ほど川岸で拾った少年、ザラキがぐったりと抱えられている。14歳とはいえ40kgに満たないであろう体躯は、彼女にとってもそれほど重荷ではない。しかし、問題はその中身だ。まるで鉛のように重い疲労と、魂の芯まで凍りつかせるような深い絶望感が、その小さな体からずっしりと伝わってくる。胡桃は時折、腕の中の少年の顔を覗き込んだ。泥と汗で汚れた額、苦痛に歪むでもなく、ただただ無感情に閉じられた瞼。その虚ろさが、逆に痛々しい。
「ふんふふーん♪ 今日のお客はわけあり品〜っと。ま、どんな品でもウチなら最高の送り出しをお約束!」
軽口を叩きながらも、胡桃の足取りは一直線に「不卜廬」へと向かっていた。璃月港で薬舗といえば、多くの人がまず思い浮かべる場所。そして、そこの店主である白朮は、腕利きの医者としても知られている。もちろん、胡桃とて往生堂の堂主。人の生死には誰よりも通じている自負はある。だが、これは専門外だ。少なくとも、この少年を「往生」させるには、まだ早すぎるし、何より本人がそれを望んでいない(あるいは、望む気力すらない)ように見えた。ならば、まずは生かす方向で手を尽くすのが道理だろう。もっとも、彼女の思考回路は少しばかり捻くれているが。
(それにしても、この子…不思議な気配だねぇ。元素力じゃない、何か別の…妙な力の残り香がする。鎧も、璃月のものじゃないみたいだし…)
胡桃の梅の花の瞳が、好奇心で細められる。テイワットの常識から少し外れた存在。それは彼女にとって、最高の「研究対象」であり、「面白いお客さん」候補でもあった。
やがて、薬草の独特な香りが漂う一角が見えてきた。「不卜廬」の看板が掲げられた建物。胡桃は躊躇なくその引き戸を開けた。カラン、と軽やかな鈴の音が鳴る。店内に足を踏み入れると、様々な薬草や鉱物が並べられた棚、そして調剤台が見える。空気には、甘く、苦く、そしてどこか土の匂いが混ざった、複雑な薬の香りが満ちている。
「ごめんくださーい! 白朮、いるー?」
胡桃は、店内を見回しながら、わざと大きな声で呼びかけた。奥の帳場のあたりから、すぐに返事があった。
「はいはい、どなた様でしょう…おや?」
帳場の影から、柔和な笑みを浮かべた青年が現れた。緑色の髪を長く伸ばし、肩には白い蛇を乗せている。不卜廬の店主、白朮だ。彼の視線が、胡桃と、彼女が抱えるザラキに向けられる。
「これはこれは、胡堂主。貴女がわざわざこちらまで足を運ばれるとは、珍しい。今日の午後は、もしかして雨でも降るのでしょうかね?」
白朮は、いつも通りの丁寧な口調で言った。しかし、その言葉にはどこか、胡桃の突飛な行動を面白がるような響きが含まれている。
「残念! 今日は快晴だよ! ま、あたしが来たら嵐が来るって言いたいのかもしれないけどね!」
胡桃はけろりとした顔で返す。白朮の肩に乗った白い蛇――長生が、ちろりと舌なめずりをした。
「ふん。急に殊勝な態度を取ったり、柄にもない人助けをしたりするのは、死ぬ間際の兆候だと聞くがな」
「あたしだって、たまには良いことするよ〜」胡桃はむっとした顔で蛇を睨む。
「それで? その抱えている方は?」
白朮は、長生の毒舌を軽く受け流し、本題に入るよう促した。その視線は、ザラキの汚れた姿と浅い呼吸を冷静に観察している。
胡桃はザラキを抱え直し、白朮に顔が見えるようにする。
「ああ、この子ね。川岸で伸びてたんだ。見ての通り、死にかけ。このままじゃ、せっかくのお客様候補が野垂れ死んじゃう。それは往生堂としても、璃月の治安維持としても、よろしくないでしょ?」
「…なるほど。それで、わざわざこちらへ」
胡桃は少し声を潜め、白朮に顔を近づけた。
「そういうこと! で、診て欲しいんだけど…この子、どう見ても一文無しっぽいんだよねぇ。こんなボロボロの鎧じゃ、質にも入れられないだろうし」
彼女はザラキの鎧を指で軽く叩いてみせる。くすんだ黒色の、非金属製のそれは、確かに金目の物には見えない。
「だからさ、治療費は後払い! 元気になったら、しっかり稼いでもらって…それから、改めてウチの顧客になってもらおうかなって!」
悪びれもせず、胡桃はそう言い放った。それが彼女なりの「善意」と「商魂」の奇妙なバランスなのだろう。死なせるのはもったいない、生かして働かせてから、然るべき時に往生堂で送ってあげる。彼女の中では、極めて合理的な判断なのだった。
白朮は、そんな胡桃の言葉にも特に驚いた様子は見せず、ただ「ふむ」と静かに頷いた。
「事情は分かりました。とりあえず、こちらへ。診察台に寝かせてください」
彼は奥の診察室へと胡桃を促す。長生がぼやくように付け加えた。
「金にならない患者は診ん、と言いたいところだがな。ま、白朮なら聞かないからな」
診察台にザラキをそっと横たえると、その体の小ささと細さが改めて際立った。白朮は手際よく、ザラキの汚れた衣服を緩め、触診を始めた。額に手を当てて熱を測り、首筋や手首で脈を取り、瞳孔の反応を見る。その動きは淀みなく、熟練した医師のものであることが窺える。
「…衰弱が激しいですね。栄養失調に加え、おそらくかなりの長距離を、ろくに休息も取らずに移動してきたのでしょう。各地に擦過傷と打撲痕。深刻な外傷はなさそうですが…」
白朮は眉を寄せ、ザラキの手を取った。その指先は冷え切っている。
「それに、この子の体…妙ですね。元素の流れが、我々とは少し違う。まるで、この世界の理に馴染んでいないような…」
彼の指が、ザラキの鎧に触れる。
「この素材も、テイワットでは見かけないものです。非常に軽量でありながら、防御力は高そうですが…」
胡桃も興味深そうに覗き込む。
「やっぱり? あたしも、何か変な感じするなーって思ってたんだよね。この子、もしかしてどっか遠い国…から来たのかも?」
その時だった。
「…フォル…フォルティオーネ…」
ザラキの唇から、掠れたうわごとが漏れた。それは、誰かの名前を呼ぶ、悲痛な響きを持っていた。
「フォルティオーネ…?女の子の名前かな? 恋人とか?」胡桃が首を傾げる。
「…守らなきゃ…俺が…やらなきゃ…」
うわごとは続く。まるで悪夢にうなされているように、その表情が苦痛に歪む。その瞳は固く閉じられているはずなのに、そこには拭いきれない絶望と、己を責めるような色が浮かんでいるように見えた。
その瞬間、不意にザラキの瞼が震え、カッと目が見開かれた。先ほど川岸で見た虚ろな色ではない。そこには、野生の獣のような、鋭い警戒心が宿っていた。状況を把握しようとするように、素早く視線が動き、目の前に立つ白朮と胡桃を捉える。体が動かないことを悟ると、彼は低い、威嚇するような声を発した。
「……誰だ……お前ら……?」
それは、助けられたことへの感謝など微塵も感じさせない、敵意すら含んだ問いかけだった。恩人に向けて放つには、あまりにも刺々しい。まるで、弱みを見せることを極度に恐れ、威嚇することで自身を守ろうとしているかのようだ。
胡桃は一瞬きょとんとしたが、すぐにニヤリと笑った。
「おっと、やっとお目覚めかい? あたしは胡桃! 君を拾ってあげた、命の恩人だよ! そっちの優男が白朮さん!」
彼女はあっけらかんと言い放つ。
ザラキは、胡桃と白朮を交互に見る。胡桃の奇妙な服装と雰囲気、白朮の肩に乗る喋る蛇、そして薬草の匂いが充満する見慣れない部屋。混乱と警戒が、彼の瞳の中で渦巻いている。そして、微かだが、この世界に満ちる元素の力に対する、本能的な違和感を感じ取っていた。マナとは違う、何か異質なエネルギー。それが彼を落ち着かなくさせている。
(ここは…どこだ…? アルフレイムじゃない…? この力は…何だ…?)
「落ち着いてください」白朮が静かに声をかけた。「ここは不卜廬という薬舗です。貴方はひどく衰弱していました。今は治療を受けているところですよ」
「治療…?…なぜ…俺を…」ザラキは訝しげに繰り返す。
胡桃が口を挟む。「なぜって、そこに倒れてたからだよ!まさか、助けてもらう覚えがない、なんて言わないよね? ま、治療費はしっかり請求するから、覚悟しときな!」
ザラキは、胡桃の言葉にさらに警戒を強める。金。その言葉は、彼にとって良い記憶を伴わない。傭兵として汚れ仕事を引き受け、得た報酬。それが、何のために使われたのか。守りたかったはずの存在を、結果的に傷つけたのではないかという罪悪感。
(金…また、金か…結局、俺は…)
彼の瞳の奥に、再び暗い影が差す。それは、人助けをしたいと願いながら、殺戮によってしかそれを成し遂げられなかった自分自身への憎悪の色だった。
白朮は、そんなザラキの微細な変化を見逃さなかった。
「胡堂主。彼の精神状態は、まだ非常に不安定です。あまり刺激しない方が良いでしょう。ひとまず、薬で体力の回復を促し、安静にさせることが最優先です」
胡桃は軽く頷く。
「へーいま、そうだね。焦って『往生』させても味気ないし」
彼女は腕を組み、改めてザラキを見た。警戒心と虚無、そして心の奥底に隠されたであろう、かつての夢や優しさの残滓。それは、彼女の好奇心を強く刺激した。
「じゃあ、この子はしばらくここに預けるよ、白朮さん。ちゃんと面倒見てあげてね。治療費のツケは、往生堂に回しといて!」
「…やれやれ。また面倒事を」
長生がため息をつく。白朮は苦笑しながらも頷いた。
「分かりました。出来る限りのことはしましょう」
「じゃあ、よろしく! ザラキ君、しっかり元気になって、精々働くんだぞー! 次に会う時は、立派なお客様になってることを期待してるからね!」
胡桃はひらひらと手を振り、軽い足取りで不卜廬を後にした。去り際に、彼女がザラキに向けた最後の視線には、単なる商魂や好奇心だけではない、何か別の感情――あるいは、同類を見るような、少しばかりの共感が含まれていたのかもしれない。
診察室には、白朮と長生、そして未だ警戒を解かぬまま横たわるザラキが残された。薬草の匂いが、彼の異世界での新たな、そしておそらく困難な道のりの始まりを、静かに告げているようだった。ザラキは固く唇を結び、見慣れぬ天井を睨みつける。脳裏には、忘れることのできない幼馴染の笑顔と、それを守るために手を血に染めた記憶が、繰り返し蘇っていた。
(フォルティオーネ…俺は…また、間違えるのか…?)
自嘲と絶望が、再び彼の心を覆い始めていた。
「ふんふふーん♪ 今日のお客はわけあり品〜っと。ま、どんな品でもウチなら最高の送り出しをお約束!」
軽口を叩きながらも、胡桃の足取りは一直線に「不卜廬」へと向かっていた。璃月港で薬舗といえば、多くの人がまず思い浮かべる場所。そして、そこの店主である白朮は、腕利きの医者としても知られている。もちろん、胡桃とて往生堂の堂主。人の生死には誰よりも通じている自負はある。だが、これは専門外だ。少なくとも、この少年を「往生」させるには、まだ早すぎるし、何より本人がそれを望んでいない(あるいは、望む気力すらない)ように見えた。ならば、まずは生かす方向で手を尽くすのが道理だろう。もっとも、彼女の思考回路は少しばかり捻くれているが。
(それにしても、この子…不思議な気配だねぇ。元素力じゃない、何か別の…妙な力の残り香がする。鎧も、璃月のものじゃないみたいだし…)
胡桃の梅の花の瞳が、好奇心で細められる。テイワットの常識から少し外れた存在。それは彼女にとって、最高の「研究対象」であり、「面白いお客さん」候補でもあった。
やがて、薬草の独特な香りが漂う一角が見えてきた。「不卜廬」の看板が掲げられた建物。胡桃は躊躇なくその引き戸を開けた。カラン、と軽やかな鈴の音が鳴る。店内に足を踏み入れると、様々な薬草や鉱物が並べられた棚、そして調剤台が見える。空気には、甘く、苦く、そしてどこか土の匂いが混ざった、複雑な薬の香りが満ちている。
「ごめんくださーい! 白朮、いるー?」
胡桃は、店内を見回しながら、わざと大きな声で呼びかけた。奥の帳場のあたりから、すぐに返事があった。
「はいはい、どなた様でしょう…おや?」
帳場の影から、柔和な笑みを浮かべた青年が現れた。緑色の髪を長く伸ばし、肩には白い蛇を乗せている。不卜廬の店主、白朮だ。彼の視線が、胡桃と、彼女が抱えるザラキに向けられる。
「これはこれは、胡堂主。貴女がわざわざこちらまで足を運ばれるとは、珍しい。今日の午後は、もしかして雨でも降るのでしょうかね?」
白朮は、いつも通りの丁寧な口調で言った。しかし、その言葉にはどこか、胡桃の突飛な行動を面白がるような響きが含まれている。
「残念! 今日は快晴だよ! ま、あたしが来たら嵐が来るって言いたいのかもしれないけどね!」
胡桃はけろりとした顔で返す。白朮の肩に乗った白い蛇――長生が、ちろりと舌なめずりをした。
「ふん。急に殊勝な態度を取ったり、柄にもない人助けをしたりするのは、死ぬ間際の兆候だと聞くがな」
「あたしだって、たまには良いことするよ〜」胡桃はむっとした顔で蛇を睨む。
「それで? その抱えている方は?」
白朮は、長生の毒舌を軽く受け流し、本題に入るよう促した。その視線は、ザラキの汚れた姿と浅い呼吸を冷静に観察している。
胡桃はザラキを抱え直し、白朮に顔が見えるようにする。
「ああ、この子ね。川岸で伸びてたんだ。見ての通り、死にかけ。このままじゃ、せっかくのお客様候補が野垂れ死んじゃう。それは往生堂としても、璃月の治安維持としても、よろしくないでしょ?」
「…なるほど。それで、わざわざこちらへ」
胡桃は少し声を潜め、白朮に顔を近づけた。
「そういうこと! で、診て欲しいんだけど…この子、どう見ても一文無しっぽいんだよねぇ。こんなボロボロの鎧じゃ、質にも入れられないだろうし」
彼女はザラキの鎧を指で軽く叩いてみせる。くすんだ黒色の、非金属製のそれは、確かに金目の物には見えない。
「だからさ、治療費は後払い! 元気になったら、しっかり稼いでもらって…それから、改めてウチの顧客になってもらおうかなって!」
悪びれもせず、胡桃はそう言い放った。それが彼女なりの「善意」と「商魂」の奇妙なバランスなのだろう。死なせるのはもったいない、生かして働かせてから、然るべき時に往生堂で送ってあげる。彼女の中では、極めて合理的な判断なのだった。
白朮は、そんな胡桃の言葉にも特に驚いた様子は見せず、ただ「ふむ」と静かに頷いた。
「事情は分かりました。とりあえず、こちらへ。診察台に寝かせてください」
彼は奥の診察室へと胡桃を促す。長生がぼやくように付け加えた。
「金にならない患者は診ん、と言いたいところだがな。ま、白朮なら聞かないからな」
診察台にザラキをそっと横たえると、その体の小ささと細さが改めて際立った。白朮は手際よく、ザラキの汚れた衣服を緩め、触診を始めた。額に手を当てて熱を測り、首筋や手首で脈を取り、瞳孔の反応を見る。その動きは淀みなく、熟練した医師のものであることが窺える。
「…衰弱が激しいですね。栄養失調に加え、おそらくかなりの長距離を、ろくに休息も取らずに移動してきたのでしょう。各地に擦過傷と打撲痕。深刻な外傷はなさそうですが…」
白朮は眉を寄せ、ザラキの手を取った。その指先は冷え切っている。
「それに、この子の体…妙ですね。元素の流れが、我々とは少し違う。まるで、この世界の理に馴染んでいないような…」
彼の指が、ザラキの鎧に触れる。
「この素材も、テイワットでは見かけないものです。非常に軽量でありながら、防御力は高そうですが…」
胡桃も興味深そうに覗き込む。
「やっぱり? あたしも、何か変な感じするなーって思ってたんだよね。この子、もしかしてどっか遠い国…から来たのかも?」
その時だった。
「…フォル…フォルティオーネ…」
ザラキの唇から、掠れたうわごとが漏れた。それは、誰かの名前を呼ぶ、悲痛な響きを持っていた。
「フォルティオーネ…?女の子の名前かな? 恋人とか?」胡桃が首を傾げる。
「…守らなきゃ…俺が…やらなきゃ…」
うわごとは続く。まるで悪夢にうなされているように、その表情が苦痛に歪む。その瞳は固く閉じられているはずなのに、そこには拭いきれない絶望と、己を責めるような色が浮かんでいるように見えた。
その瞬間、不意にザラキの瞼が震え、カッと目が見開かれた。先ほど川岸で見た虚ろな色ではない。そこには、野生の獣のような、鋭い警戒心が宿っていた。状況を把握しようとするように、素早く視線が動き、目の前に立つ白朮と胡桃を捉える。体が動かないことを悟ると、彼は低い、威嚇するような声を発した。
「……誰だ……お前ら……?」
それは、助けられたことへの感謝など微塵も感じさせない、敵意すら含んだ問いかけだった。恩人に向けて放つには、あまりにも刺々しい。まるで、弱みを見せることを極度に恐れ、威嚇することで自身を守ろうとしているかのようだ。
胡桃は一瞬きょとんとしたが、すぐにニヤリと笑った。
「おっと、やっとお目覚めかい? あたしは胡桃! 君を拾ってあげた、命の恩人だよ! そっちの優男が白朮さん!」
彼女はあっけらかんと言い放つ。
ザラキは、胡桃と白朮を交互に見る。胡桃の奇妙な服装と雰囲気、白朮の肩に乗る喋る蛇、そして薬草の匂いが充満する見慣れない部屋。混乱と警戒が、彼の瞳の中で渦巻いている。そして、微かだが、この世界に満ちる元素の力に対する、本能的な違和感を感じ取っていた。マナとは違う、何か異質なエネルギー。それが彼を落ち着かなくさせている。
(ここは…どこだ…? アルフレイムじゃない…? この力は…何だ…?)
「落ち着いてください」白朮が静かに声をかけた。「ここは不卜廬という薬舗です。貴方はひどく衰弱していました。今は治療を受けているところですよ」
「治療…?…なぜ…俺を…」ザラキは訝しげに繰り返す。
胡桃が口を挟む。「なぜって、そこに倒れてたからだよ!まさか、助けてもらう覚えがない、なんて言わないよね? ま、治療費はしっかり請求するから、覚悟しときな!」
ザラキは、胡桃の言葉にさらに警戒を強める。金。その言葉は、彼にとって良い記憶を伴わない。傭兵として汚れ仕事を引き受け、得た報酬。それが、何のために使われたのか。守りたかったはずの存在を、結果的に傷つけたのではないかという罪悪感。
(金…また、金か…結局、俺は…)
彼の瞳の奥に、再び暗い影が差す。それは、人助けをしたいと願いながら、殺戮によってしかそれを成し遂げられなかった自分自身への憎悪の色だった。
白朮は、そんなザラキの微細な変化を見逃さなかった。
「胡堂主。彼の精神状態は、まだ非常に不安定です。あまり刺激しない方が良いでしょう。ひとまず、薬で体力の回復を促し、安静にさせることが最優先です」
胡桃は軽く頷く。
「へーいま、そうだね。焦って『往生』させても味気ないし」
彼女は腕を組み、改めてザラキを見た。警戒心と虚無、そして心の奥底に隠されたであろう、かつての夢や優しさの残滓。それは、彼女の好奇心を強く刺激した。
「じゃあ、この子はしばらくここに預けるよ、白朮さん。ちゃんと面倒見てあげてね。治療費のツケは、往生堂に回しといて!」
「…やれやれ。また面倒事を」
長生がため息をつく。白朮は苦笑しながらも頷いた。
「分かりました。出来る限りのことはしましょう」
「じゃあ、よろしく! ザラキ君、しっかり元気になって、精々働くんだぞー! 次に会う時は、立派なお客様になってることを期待してるからね!」
胡桃はひらひらと手を振り、軽い足取りで不卜廬を後にした。去り際に、彼女がザラキに向けた最後の視線には、単なる商魂や好奇心だけではない、何か別の感情――あるいは、同類を見るような、少しばかりの共感が含まれていたのかもしれない。
診察室には、白朮と長生、そして未だ警戒を解かぬまま横たわるザラキが残された。薬草の匂いが、彼の異世界での新たな、そしておそらく困難な道のりの始まりを、静かに告げているようだった。ザラキは固く唇を結び、見慣れぬ天井を睨みつける。脳裏には、忘れることのできない幼馴染の笑顔と、それを守るために手を血に染めた記憶が、繰り返し蘇っていた。
(フォルティオーネ…俺は…また、間違えるのか…?)
自嘲と絶望が、再び彼の心を覆い始めていた。
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